概要
人間は自分たちを育んできた自然環境を、偉大なる何者かに、生存の場として与えられてきた。最初から人間としての存在として生かされてきたのか、それとも、動物から人間という種へと進化してきたのか。
いずれにしても、人間とは何か、この本質の問いを追窮することこそ、人と自然の共生の本質とは何か、人間は何のために生まれてきて、どこに向かうのかの解に繋がるものと信じている。
原始の頃より人間は生き残るために切磋琢磨してきたが、時代を経て、巨大化した人間の脳は、生き残ることから、必要以上の自我と欲望を満たすために、そのエネルギーを消費するようになってきた。まるで人間としての理性的な判断の分岐点を超えようとしているようである。
共生とは
「人と自然の共生」という響きは、どうも、人間主体であり、人間のための自然とのバランス管理、というニュアンスに聞こえてならない。
まず、「共生」という言葉を辞書で調べると概ね次のような説明になる。「2種類の生物が,一方あるいは双方が利益を受けつつ,密接な関係をもって生活することをいう。フジナマコとカクレウオの関係やアリとアリマキの関係がその例である。どの種の共生であっても決して不利益は起こらない関係なのである。」
不利益が起こらない関係。さて、現在の「人と自然及び自然界に存在する生命体」との、共生はどうであろうか。一つ重要なことがある、それは、人間は他の生命体や存在物を人間の奴隷化にしているということだ。
動物との関わりであれば、ペット、動物園、家畜などがその代表例であるが、ペットの多くは人間の寂しさを満たすためのものであり、動物園も人間の見世物として維持管理されていたりする。
食料としてみても、エスキモーなどの先住民族が最低限の狩猟をするものなどを除き、先進国においては、安く、早く、大きくといった人間の欲、利益を優先したシステムが出来上がり、大量の生命が効率的・機械的に食欲の道具にされ続けている。もちろん我々人間は、その恩恵を受けていることを忘れてはいけない。
時代とともに人間だけが、必要最低限という自然の仕組みのルールを忘れ、動物、植物の生命や存在物を奴隷化にしていることさえ気がつかないでいる。
一人では生きられない仕組みが自然界にはある
風や昆虫の力を借りて、結実する花や樹・・・自然界はマクロからミクロの世界まで相似形のようだ。
例えば、共生の仕組みを私たちの人体に置き換えてみると、口や歯が胃のために働く、胃は腸のために働く、心臓、肺、腎臓などの臓器も、人間の体のすべての部分は、他のために働きながら、全身を生かし、自己も生きている。自然は、相互に生かし合い、協力し合わなければ独力で生きることができないことのメッセージを私たちの肉体に残してくれているようである。
これが共生の法則の土台であり、地球上の生命はこの仕組みから離れては存在できない。
動物は、空気中の酸素を吸って、二酸化炭素を排出する。植物はそれら二酸化炭素を利用し、光と水を使って光合成をして、酸素を放出する。さらに動物の食料や薬草となり、動物を生かしている。動物と植物、または鉱物にいたっても相互に奉仕し合い、補い合って共生し、共栄している。
共生から調和、人の意識と意志
オーケストラは、多種多様な楽器で一人一人演奏する。それは、共生でありながら、調和のとれたハーモニーとなっている。
以前、ある建築家から聞いた話しがある。
そしてこう続けられた。
つまり、人と自然の共生とは、人間一人一人がどのような意識と意志(プログラム)によって共生に望むのかで決まるものではないだろうか。
自然との景観、環境保護などといった、人間からみたバランス感覚を主としたものでなく、先述の建築家の意識と意志(プログラム)にもあるように、人間を含めた存在物すべての時空間が一体となったような、全体の調和をどれだけ意識できるかが「人と自然の共生」の在り方を決定していくのだろう。
自然の仕組みに適った調和のとれた方向に向かうのか、そうでないのか。自然の仕組みとは何か。この問いへの解、つまり、人間と自然の法則・仕組みとの調和の度合そのものが、人と自然の共生そのものなのである。
文責:n.asada